敗戦忌・終戦80年
きょう8月15日は、いわゆる終戦の日から80年でした。
きょうの東京新聞の社説では、終戦時の首相であった鈴木貫太郎の終戦までの道のりを紹介して戦争を終わらせることの難しさを説き、だから戦争は始めてはならないと結んでいます。
まさにこれに尽きると思います。海軍の出身だった鈴木貫太郎が新憲法案で戦争放棄の9条に敬意を表していたという話は初めて知りました。「戦後80年」と言われますが、いつまでも戦後であり続けるようにしていかなければなりませんね。
きょう8月15日は、いわゆる終戦の日から80年でした。
きょうの東京新聞の社説では、終戦時の首相であった鈴木貫太郎の終戦までの道のりを紹介して戦争を終わらせることの難しさを説き、だから戦争は始めてはならないと結んでいます。
まさにこれに尽きると思います。海軍の出身だった鈴木貫太郎が新憲法案で戦争放棄の9条に敬意を表していたという話は初めて知りました。「戦後80年」と言われますが、いつまでも戦後であり続けるようにしていかなければなりませんね。
きょう8月9日は長崎原爆忌。被爆から80年でした。
きょうは休みでしたので、平和祈念式典の模様をテレビジョンでリアルタイム視聴し、米軍の投下時刻に黙祷しました。そのあとに長崎市長の読み上げた平和宣言は、大変にインパクトのあるものでした。冒頭、今すぐ武力の争いをやめてくださいという叫びには強い危機感がこもっていました。確かにそうです。核兵器は戦争で使われるのですから、まず戦争を止めねばなりません。そして、NPT(核兵器不拡散条約)で核廃絶の具体的な道筋を示すことは、もはや先送りが許されないと訴えています。日本政府は核保有国が参加していないことを言い訳に核兵器禁止条約に背を向け、何かといえばNPTでの取り組みが大事と言い続けてるのですから、何が何でも成果を出してもらいたいものですね。
長崎の平和宣言は市民も加わった起草委員が議論して練り上げていると聞いています。市民の強い危機感・切迫感が、全般に緊張感のある平和宣言になったのだろうと理解しました。平和宣言の全文は長崎市の公式サイトで読むことができますが、ぜひ式典での音声を聴いてもらいたいです。NHKラジオのらじる☆らじるで聴くことができます。8月16日11:45まで聴取可能です。
きょう8月6日は広島原爆忌でした。
今年の平和記念式典での首相のあいさつは、ここしばらくのものとは違い、自分の言葉で作られたと感じられるものでした。しかし、広島市長の読み上げた平和宣言や被爆者の願いである核兵器禁止条約の批准や締約国会議へのオブザーバー参加に対しては完全スルー。80年の節目でありながら何も姿勢が変わらないことにもやもやが募るものでした。日本政府が重視するNPT(核兵器不拡散条約)の求める核軍縮が結果を出せていればいいのですが、そうではないのですから。
それよりも、核抑止論に関して、抑止とはフィクションであると喝破した広島県知事のあいさつに共感できました。抑止とは破られるものだとして、その実例のひとつに、圧倒的戦力差がありながら太平洋戦争の開戦に踏み切った日本を挙げていました。これほどわかりやすい説明はありません。ぜひ、あいさつ全文を見ていただければと思います。広島県の公式サイトに掲載されています。
6月23日は、先の大戦で沖縄での組織的な戦闘が終了したとされる日から80年でした。沖縄戦や、その実相を伝えようとする取り組みに対して事実に即さない思い込みによる自説を公然と振りまき反省の色もない国政与党国会議員まで登場するようになった今、どのように実相を伝えていくかということはますます重要になっていると思います。本来ならメディアが奮起して欲しいところですが関東の放送メディアでは放送協会が沖縄全戦没者追悼式の中継をしたぐらいでこれといった特番もない状況。折しも22日投開票の東京都議会選挙では国粋主義的・復古的な主張を掲げる右派が伸長する結果となり、海外に目を転じれば先制攻撃を平気で仕掛ける国々が。。。改めて平和を考える日にしたいです。好きな音楽や芝居を自由に楽しめる世の中が続くために。
「Memoires・音楽の時空旅行」をテーマに開催されたクラシック音楽フェス「ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2025」を今さら振り返るシリーズ3回目です。公演番号は公式サイトと照合ください。
3日目(5月5日)
◆地上広場キオスクステージ(19:15~)
出演:アンサンブル・コノハ
こちらは誰でも自由に聴ける無料公演です。屋外ですが気候が良い時期なのでそれもまた心地よかったりします。予備知識なしで聴きましたが、まずはいきなりピアノ演奏のみで「ジュ・トゥ・ブ」「愛の賛歌」とシャンソン2連発!そのあとも声楽(こちらがメイン)が入って「オー・シャンゼリゼ」「私の好きなもの」とシャンソン寄りな曲が。ここでシャンソンが聴けるとは思いませんでした。昨年も綴りましたが、LFJはフランス発のフェスなのにシャンソンは本公演で取り上げないんですよね。。。今年のようにジャズは割と取り上げるんですが。他にはスメタナの交響詩「我が祖国」からモルダウなどポピュラーなクラシックなどを声楽で。心地よい声に癒されました。
◆公演315 アメリカ仕込みのアーティストたちが奏でる、ニューヨークの「生」
21:00開演のファイナルコンサートです。クラシックフェスでありながらここにジャズ寄りの曲をプログラムしたところがLFJらしいところ。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。そこに曲ごとに多彩な顔触れが加わっての演奏でした。1曲目のガーシュウィン「ピアノ協奏曲へ調」は山中千尋さん(ピアノ)、大井澄東さん(ベース)、山本裕之さん(ベース)が共演。通常は楽章の終わりでは拍手しないクラシックですが1楽章の終わりで拍手が沸き起こるくらい熱演で盛り上がりました。2曲目のワクスマン「アルテミスの夢」はプログラム解説書によると管弦楽版は日本初演とのこと。各楽章の演奏に入る前に前説的な朗読があったり、共演のエリプソス四重奏団(サックス)が宇宙服のようないでたちで入場してきたり(演奏に入る前に取りました)仕掛けが多く、コンテンポラリーの曲なので独特の世界観が楽しめました。で、ここまでで演奏予定時間の80分を使い切り、3曲目は延長戦に(^^; ラストはおなじみガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」。ここで共演したのはフランスのジャズトリオであるポールレイ・トリオ。通常はピアノが途中のカデンツァを弾くところ、ベースとドラムもカデンツァに参加し、そこだけ聴くと完全にジャズでした。そして驚くことに途中、今度はオーケストラのほうがカデンツァ的にジャズ寄りの演奏をするところがあり、なかなかに斬新な「ラプソディ・イン・ブルー」でした。熱演で演奏が終わったのはなんと22:55頃。カーテンコールもそこそこに客電が点いて退場モードになり余韻が無かったのが少々残念でした。ここまで予定時間より遅くなれば帰宅の足が気になるので致し方ないですが、もう少し早く終わっていればカーテンコールが盛り上がり音楽監督のルネ・マルタン氏も登場したのではないかと思います。とはいえLFJが始まった頃の売りは「朝から終電まで」だったので、久しぶりのその感覚が味わえたという点で個人的には悪い気はしなかったです。新型コロナ禍での中断から再開を経て早じまいになっていたので。。。
○おわりに
今年は夜間の有料公演を中心に聴きましたが、昼間も周辺エリアの無料公演などをいくつか聴き、年に1度のクラシックのシャワーを楽しむことが出来ました。もう少しかつてのような「お祭り感」があるといいなと思うのですが、まずはクラシックが気軽に聴ける場が続くことがなにより。来年も開催されることを楽しみにしています。
きょう3月22日は日本でラジオ放送が始まったとされる日から100年でした。今年は昭和100年とも言われますが、ラジオ放送の開始は大正14年、昭和のほうは数え年なので元号が合いませんね。
以前にも綴ったとおり1925年3月22日は社団法人東京放送局が「仮放送」を始めた日。東京・芝の愛宕山に建設中の局舎は完成しておらず、東京・芝浦にあった東京高等工芸学校を間借りして送信機も借り物で用意した仮設の放送局からの放送だったといいます。そんな仮設の放送局からの放送を急いだのも、大阪放送局が東京に先んじて放送を始めるらしいという情報に反応したためといいます。東京が大阪に遅れてなるものかというメンツのためなので、ちょっとモヤモヤするところはあります。
1923年の関東大震災で新聞社が被災して機能せずデマが広まったことがラジオの待望論を生んだされていますが、その後ラジオは「大本営発表」という官製フェイクニュースを垂れ流すことになったのは皮肉というほかありませんでした。(ただ、これは通信社も新聞社も同じであり、ラジオだけが責めを負うものではありません。)
そして今、ラジオを含む既存メディアは「オールドメディア」と揶揄される一方で、SNSという「新しいメディア」によってデマの広がりはより早く大きくなっているというのもまた皮肉なものです。こんな時代だからこそ、オールドメディアという揶揄に負けず「政府から独立し、取材に基づきウラをとった正しい情報」を出す努力をしていただきたいと思います。
きょう3月10日は東京大空襲から80年の日でした。節目の年とあって、例年よりもメディアで取り上げられる量が多めに感じます。しかし、8月の原爆忌や終戦の日、あるいは6月の沖縄慰霊の日などに比べれば圧倒的に少ないと感じます。わずか数時間で民間人10万人が虐殺された空襲です。その非人道性からも空襲の実相を伝承していくことが大切だと感じます。
今年も浅草公会堂での「東京大空襲資料展」を週末に訪れました。被災80周年ということで、例年の展示にあった戦時下の茶の間の再現コーナーを外した代わりに、空襲の実相がわかる記録写真の展示が増量されていました。浅草寺が所蔵していたという、空襲後の浅草寺の境内などですが、石の土台しか残っていない本堂・鐘楼や、火災に耐えて残ったご神木の大銀杏など、今と対比できる場所の写真を見ると具体的にイメージしやすかったです。そして、松屋デパート(東武浅草駅)を背に隅田公園内に広がる犠牲者の仮埋葬地。おそらく被災から数年後の写真と思われますが、遺体こそ写っていませんがその無数の墓標は衝撃的でした。(警視庁カメラマン石川光陽氏の撮影した遺体の写っている記録写真も例年どおりありました) これらの写真はすべて空襲後に撮影されたもので、空襲の最中の写真はありません。それを補っているのが空襲被害者の記憶に基づく絵画で、添えられたキャプションと合わせて見るといかに凄惨だったか伝わってきます。
資料展は、ただ被害状況だけを並べているのではなく、東京大空襲に至るまでに日本が何をしてきたかを柳条湖事件(1931年)からの年表で表し、国が国民に対し何をしてきたかも展示しています。1943年に内務省が発行した「時局防空必携」には5か条からなる“防空必勝の誓い”が掲載されていますが、その一は「私達は『御国を守る戦士』です。命を投げ出して持場を守ります。」とあります。これ、戦士となってますが兵士ではなくて一般市民向けです。こういった「指導」と、逃げるな火を消せを義務付けた「防空法」が空襲の犠牲を大きくしたのは間違いありません。一方で、軍人・軍属には恩給が支給されながら民間人には何の補償もなく、超党派で準備しているという民間空襲被害者の救済法案は政府・自民党の反対で未だ国会提出にすら至っていない状況です。戦後80年、軍拡をやる前にやるべきことがあるのではないでしょうか。
きょう1月17日は阪神淡路大震災から30年でした。ここ数年、メディアでの取り上げが減っているように感じていましたが、今年は30年の「節目」ということもあってか、きょうを迎える前から連日、メディアで積極的に取り上げられていました。能登半島地震から1年ということもあるのかもしれません。発災時刻に放送されていたラジオ関西(兵庫・558kHz)の特別番組「阪神・淡路大震災30年 神戸からの祈り」をradikoタイムフリーで聴きましたが、インタビューに応じていた方が記憶の継承について「31年、32年になったときが大切」といったことをおっしゃってました。今年はこうして大きく取り上げられていたけれど、その先も語り継いでいかなければならないということです。新聞報道によると「30年の壁」という言葉もあるそうです。30年経つと体験者も少なくなり語り継ぐのが難しくなってくるということです。それを意識してか先の特番では次の語り継ぎを担う若い世代の出演が目立ちました。またアナウンサーは「この国では災害から逃れられない」ということも強調していました。阪神淡路大震災が起こる前、漠然と「関西は地震が少ない」などと言われていたものです。しかし突然あの烈震に襲われた。。。東海地震、あるいは南海トラフ地震の30年以内の発生確率がどうのと言われ続けていたのに、東日本大震災、中越地震、北海道胆振地震、熊本地震、そして能登半島地震などなど、それ以外の地域で大きな地震が起きています。いつどこで起こるかわからない。。。だから、これまでにあった震災の記憶と教訓を、自分事として受け止めて、できることをしていくのが大切なのではと感じます。この30年、耐震化などの事前の備えや被災者支援など進化したところもありますが、避難所の状況など相変わらずのこともあります。できるだけ教訓を生かせる社会でありたいです。
12月20日の夜にNHK総合テレビジョンで放送された「安全地帯・零ZERO-旭川の奇跡-」をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。事前の告知で、安全地帯という名の由来についても触れるということだったので興味を持って見ていたのですが、メンバーから明かされたのは、バイクの教習本を見ていて交通標識の「安全地帯」に目が留まり決めた、というものでした。
ありゃー。ネットの情報で安全地帯が交通標識に由来するということは知っていたのですが、私はてっきり、地元旭川を走っていた日本最北の路面電車、旭川電気軌道の停留場にあったのではと思われる安全地帯の標識を見てのことかと想像していました。きっかけが教習本だったとは。。。まあだからどうというわけでもないのですが、バンド(当初はフォークバンドだったようですね)と路面電車の取り合わせは面白いなあと思っていたので。。。いちおう、旭川電気軌道の軌道線が全線廃止になるのが1972年の大晦日、中学生のアマチュアバンドとしての安全地帯の結成が1972年ですから、年代的には合います。
となると、地元では郊外電車と呼ばれていて、路面電車とはいえ車両にはステップがなく高いホームから乗降していた旭川電気軌道の停留場にはやはり安全地帯の標識はなかったのかな。。。廃止から50年以上、もはや確かめるすべがありません(^^;
きょう12月8日は日本が米英と開戦して83年の日でした。8月15日と比べるとメディアでの取り上げが圧倒的に少ないのはなんでだろう、と毎年思います。安保法制の制定、集団的自衛権行使容認、敵基地攻撃能力の保有方針など「戦える国」への改造がひたひたと進む今こそ、12月8日を顧みることが大切なのではないかと思います。
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