広島電鉄家政女学校
今日8月9日は長崎原爆忌。広島にくらべると注目度が低く感じられるのは、広島の後だからなのか、原爆ドームのような象徴的建造物がないからなのか、怒りの広島にたいして祈りの長崎だからなのか・・・。
・・・という書き出しの記事を掲載したのは2年前の今日でした。
この記事の中で触れた広島電鉄家政女学校のことについて詳しく記述されている本を先日偶然、書店で見つけて購入しました。
『チンチン電車と女学生』
(日本評論社:ISBN4-535-58425-7)
元々は同名の地元放送局のテレビドキュメンタリーが先にあって、その取材過程も含めて書籍化したものということです。まだざっとしか読んでないのですが、文献の掘り起こしや元学生など関係者の証言などによって、幻といわれた女学校の様子を、開校から被爆・廃校、そして女学生のその後まで詳しく描いています。
読んでいて、私が思い違いをしていたことがありました。広島電鉄が少女車掌を乗務させていたのは、電車の集電装置にビューゲル(パンタグラフのようなもの)を採用していたからだと思い込んでいたのですが、1期生が入った1943年春当時、まだ広電の車両はトロリーポール式だったというのです。
(トロリーポールがどういうものかはこちら参照)
このトロリーポールは、竿の先に滑車が付いていて、それを架線にはめて電気を取り入れるわけですが、カーブなどで離線したり終点で方向を変えるときはポールの紐を引いて滑車をはめなおさねばならない。これが大人の男性でも大変で、とにかく張力が大きく、下手すると体が浮き上がるほどだといいます。車掌は切符売りやドア開閉だけでなくポール操作もしなければならないので、少女には重労働だと思っていたのですが、そこまでやっていたとは驚きでした。時には乗客が手伝ったこともあったようですが。。。被爆当時は全車ビューゲル式に改造されています。
車掌から運転手になった女学生も大勢います。今なら自動車の運転免許も取れない年齢で電車を動かしていた女学生。どんな気持ちで乗務していたのかと思っていたのですが、誇りだと思っていたという証言があったのにも少し驚きました。当時は学徒動員でみんな働いてたから当然と思っていた、というのです。戦時体制とはどういうものなのか、というのがほんの少しわかったような気がします。
そして、被爆時の様子は、やはり読んでいてつらいものがあります。その混乱の中敗戦を迎え、 男性社員が戻ってくるからということで女学校は再建されることなく廃校になったというのです。わずか2年半の存在、資料も焼失あるいは埋もれてしまい、以後幻の女学校となってしまったというわけです。
しかし、たとえ幻と言われても、戦争中の広島の電車を支えていたのは紛れもなく家政女学校の生徒たちであり、「あの日」運転現場の最前線にいた彼女たちも大きな犠牲を払ったのです。そのことが、こうして記録の中でよみがえり、伝えられていくことは、原爆体験の風化が進むなか意義深いものと思います。
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コメント
こんにちは、少しご無沙汰しております。
とてもタメになる記事、読ませていただき有難うございました。
私、音楽と昔やっていた理数系(それも、今となっては怪しいものもあり)以外は全く知識がないのですが(苦笑)、こういうお話はとても興味があります。
様々な外圧があるかもしれませんが、犠牲になられた方のことは忘れてはいけないものだとあらためて思いました。
それでは。
投稿: うすいのたかし | 2006年8月15日 (火) 16:36
■うすいのたかしさん
タメになる話だったのかどうかは自分でも良くわからないのですが、歴史に埋もれかかった話を掘り起こすことは大切だなと思った次第です。美談ではなく、教訓として。。。
投稿: MARU | 2006年8月16日 (水) 22:16